ノルウェーの森

 またまた久しぶりの記事になってしまいました。今回は9月の初めに行ったノルウェー旅行記を掲載します。少し長いですが読んでみてください。
 世界一物価が高いというノルウェーになんか行くことはまずないだろうと思っていたのだが、どうしてそんなノルウェーに私が行くことになったのかというと、大学時代の寮の先輩が1年間の海外勤務でノルウェーのHaldenという所に来ていたからだ。今回の旅の予定はこうだった。先ずは先輩のところへ行き2、3日厄介になる。そうしてノルウェーの風に慣れてから西海岸のフィヨルドを見に行く。ヒッチハイクをして、テントを張って。物価の高さに恐れをなしていたので十分な米を携えて行った。森で寝ていればヘラジカが見れるかもしれないと密かに期待を膨らませた。ヘラジカはなんと肩までが2メートルもあるらしいので、出会った時のことを想像すると興奮した。ヒッチなんて日本でしたことがあったがそれももう10年以上前のことだ。だから外国でヒッチするのには不安があったし、帰りの飛行機に間に合わせなければならないので無理そうだったら電車かバスに乗ろうと目算していた。
 私が想像していたよりノルウェーでのヒッチハイクは案外うまくいった。私を乗せてくれたノルウェー人は皆親切で、そのうちの何人かは昔若いころにヒッチをよくしていたと話してくれた。そして彼らの多くはノルウェーの物価が高いことに不満を持っていたが、ノルウェーの自然とノルウェーという国に満足していた。大変な事ももちろんあった。途中大雨が降って寒かったのには参ったし、ヒョウまで降ってきたのには心をくじかれそうにもなった。殆ど住宅がない田舎に降ろしてもらったがそこはなかなか車が通らない。近くに駅やバス停なんてもちろんない。行き先を書いた紙を突き出しながら、僕の前をポツポツ走り去ってしまう車を横目に飛行機で帰る日までの計画を何も当てのないまま考えた。
 1日目の夜は湖の畔にテントを張った。ヒッチで捕まえた元気なおばさんの話では普段はドイツからのキャンピングカーで賑わっている所だから次の目的地まで連れていってもらえるかもねなんて言う。いざ行ってみるとノルウェーの夏ももう終りだからだろうか、誰ひとりいなかった。雨が降っているなかひとり寂しく林の中にテントを張った。寒かったせいかおばさんの車から荷物を下ろす時に背中をひどく痛めた。この痛みではヒッチはもちろん旅を続けられるかどうかさえ疑いながらうーうー言いながら眠りについた。寒さで何度も起きてはまだ日が上らないことを恨んでまた寝袋に潜り込んで寝た。雨で良く見れなかった湖が次の日の朝には朝日と共に清々しい姿を見せてくれた。
 西海岸に近づくにつれ雄大な景色が広がり、カメラを取り出す回数が増えるに従い私の心もウキウキしてきた。星の数だけある湖はどれもみな美しく、氷河によって形作られた地形はここノルウェーならではのものだ。滝もある。ほぼ垂直な岩の壁から噴き出す水はきれいな白い線を描きながら見えない所へ落ちていく。こんな高い滝を今回の旅でよく目にしたものだ。ヒッチを初めて3日目の朝は5時に起き、プレーケストーレンと言う日本でも有名なフィヨルドの地を目指して旅立った。朝早ければ朝焼けもきれいに見れるだろうし、何より他のうるさい観光客が少ないだろうと思ったからだ。私の旅の重い荷物を背負い岩場を登っていく。プレーケストーレンについた時には出発してから3時間くらいたっていたと思うが、途中で会ったドイツ人の白ヒゲのおじいさんと私がその日の一番乗りだった。海面から私たちが乗っているほぼ垂直、というより逆に少し反っている岩までは600メートルもの落差があると言う。写真でその光景を見てその壮大な景観に胸を弾ませたが、実際その岩の端の近くまで行き、なかなか視点が合わない下をのぞくと足がすくみ肝を冷した。白ヒゲおじいさんとふたりで岩の一番先端に這い蹲って下を覗く。ウーと私。おーと白ヒゲおじいさん。あの感覚は今でも体に残っている。
 その日はプレーケストーレンから降りてきて町まで歩いた。そしてこの町の近くの地図を買い、食糧を補充してまた山に。この絶景の地は有名な観光地なので人が沢山いたから今回の私の旅の目的の一つであった、"ノルウェーの自然を味わう"ことが十分できなかった。だから次は一人静に山歩きを、そして自然の中をただ行きたいと願って地図を見て当てもなく良さそうな所を探した。ある場所に目をつけそこを目的地にまた荷物と共に足を一歩ずつ出しながら急な坂道を登っていった。はっきりいってその道が合ってるのかどうかは分からなかったがもう坂を登ってしまったのでこの道を行こうと思った。この日は静かな森の中に僕のテントがポツリと立っているのを見て満足だったが、同時に不安にもなった。
次の日の早朝、霧の中をある山の頂を目指して進んでいった。地図をみて道を確認し、さて進もうと思った瞬間私は私の目に飛び込んできた風景に衝撃を味わった。さっきまで真っ白だった私の視界がパッと開け朝焼けと周りの山が美しい色を見せてくれたのだ。あの時の景色は瞼に焼き付いている。そんなすてきな時間を歩きながら荷物がどうしても重いことに耐え切れなくなって背負っていた大きなリュックサックをなるべく人目につかない、でも忘れそうにないところに隠して進むことにした。身軽になって気分も軽く例のそこここにある素敵な湖を見ながら出てくる朝日に向かって歩いた。その山道の印は本当に分かりづらかったので何度も迷った。人があまり来ない湿地の中の道だったので道があるのかどうか、歩道の印も赤いペンキが石にちょこんと塗ってあるだけで見つけづらい。湿った足元と葉っぱに残った昨日降った雨の雫で全身がびしょ濡れになった。私の他には登山している人は見当たらず、いつ付けていったのか分からない足跡だけを頼みに進んでいった。辺は静かで、時折口ずさむ鳥の歌声と流れる川の音以外は聞こえなかった。とうとう急な岩場まで来た時いくら探しても印も足跡さえも見つからなかった。足元は濡れていて滑るし、そもそも岩が急すぎて登ろうとすれば山登りというよりロッククライミングだなんて思いながら少し登ろうとした。危惧していた通り靴がツルっと滑って脛を岩にぶつけてしまった。幸い少し血が出ただけで異状はなかったが、ここでは死ねないと思い引き返すことにした。戻る道にも低い山への道があり、行こうかどうか悩んでいたのだがそのわかれ道まで来た時自然に足が山道に進んでいった。その頂からの景色もまた何とも綺麗で、湖が散らばり、高低のいくつかの山々が密に聳えている。そのうちの極めて急な傾斜のそして一段と美しい山が私が登ろうとした山だった。
 今回の旅は1週間だったが、色々あったせいか、不安と興奮の中を行ったせいか1週間が1カ月にも感じられ、やっとフライブルクの我家までたどり着いた時にはとても安心した。ノルウェーの山道はドイツのようにしっかり整備されていなく、プレーケストーレンに至っては断崖絶壁なあの岩にも柵も何も無い。より自然に近い状態のままなのだろう。そんな自然の中に一人でいると美しいと感じると同時に、若しくはそれ以上に不安を感じる。しかし不安だから美しいのだ。舗装された道を歩き、車で山道を行き、安全な場所から自然を見れば安心だ。だけど不安を感じないのは生の自然との隔たりがあるからだろう。この隔たりが大きければ大きいほど人は自然を真に感じることが出来なくなる。苦労して自分の足で歩き、ヒヤッっとする体験をすると自分の周りの自然は輝き出し、その美しさは自分の一部となって残るだろう。この夏のノルウェーの森での経験は私にとって掛け替えのないものになると思う。色々なことを肌で感じ、色々と考えた。この不安で大変だった旅は私の今後の人生に新たな指針を示してくれる。