環境保護の理由づけ?

 今日はちょっと環境倫理について書こうと思います。私の考えもまとまっていないのでちょっとわかりにくくなるかもしれませんが、興味のある方は続けて読んでみてください。
 「環境倫理」というのはごく簡単に言い換えると、「いったいどうして環境を守らないといけないのか?」ということを理由づけしたり、説明したりするものです。例えば、遺伝資源は薬や作物の品種改良に多大な貢献をするので保存しないといけない、だとか毒性のあるゴミを川に垂れ流したら、川に住んでいる生き物が死んでしまったり、病気になったりするのでいけない。さらにはその川に住んでいる魚などを食べると人間も病気になってしまうので、毒性の強い物質の管理をしっかりしないといけないだとか、この木はずっと昔から大切にされてきているので守らないといけないだとか、というようなことが考えられると思います。
 いったいこのような理由づけは必要なのでしょうか?僕はある意味ではもちろん必要だと思います。環境問題が私たちの生活の大きな問題となっている今の差し迫った状況では人に、特に環境に負荷をかけている人たちに対して解り易く説明し、納得してもらう必要があると思います。さらに環境問題は既にこの地球のすべての国、すべての人(、すべての動物や植物や無生物)に関係する大問題になっています。この異なる言語、宗教、文化を持った人たちが歩調を合わせ、同じ目的に向かって歩いていくためには何らかの共通する認識と価値観を共有しないといけないと思います。もちろんすべての価値観、考え方を同じにするのではなく、異なった人々の多様性を持った中での「同じ方向性」を話し合いの中で見つけていく必要があります。これを助けてくれるのが環境倫理なのだと僕は考えています。
 でもこの理由づけはいつも常に必要なのでしょか?僕はどうも環境保護のすべての活動に対して必要だということは無いと思います。井戸に落ちそうになった乳飲み子を見たらとっさに助けようと体が動いてしまうように(惻隠の情)その行動に対して人ははっきりとした理由を述べることはできないだろうし、理由づける必要がそもそも無いような気がします。環境問題でもこのように理由をわざわざひっぱり出してきて付ける必要がないこともあるのではないでしょうか?私たち人間はすべての行動に対して理由が必要ではないし、理由がなくても物事は存在し、私たちは行動します。
 人間中心主義というのは、一番初めの例に挙げたような、人間を中心に考えて、人の利益になる、価値があるので環境を守ろうというものですが、もちろん私たちは人間なので(、ほとんどすべての場合人間としてしか考えたり、感じたり出来ないので、)この考え方は当然と言えば当然だと思います。しかし、僕は、人間として利用価値があるので環境保護をするという理由が無くても人は環境をよくしたいと思い、小さな虫を守ることができると思います。
 ここのところは非常に微妙で難しいところですが、これをここまで読んでくれた方はどのように感じたでしょか?人間や国の利害が対立した時や効率を目指す時、もしくは科学的な研究結果(認識)の違いから起こる対立がある時などには確かに「理由づけ」は必要になりますが、個々人の生活レベルにおいてはもう少し感覚的、直観的に「考え」てもいいのではないでしょうか?この個々人の生活レベルでの行動には体に染みついた文化的な背景は無視できませんが、この文化的な背景を考えないとしても、乳飲み子の例のようなものを私たちは持ってると僕は思います。そしてそこから出発する行動も非常に大切になってくるのではないかと思います。