環境に守られている

 前回の「環境保護の理由づけ?」では普段の生活では環境保護をする理由はいちいちつけなくてもいいんじゃないか?ということを書きました。なぜこんな記事を書いたのかというと、私たちはもっと普段の生活の中で感覚的なものを大切にしてもいいんじゃないかと思うからです。全てのことを説明する必要は無いし、できません。美しいと感じる心、嬉しかったり、悲しかったり、もしくはいい匂いであったり、こういう感覚や直観をもっと意識して生活することは、日常をもっと豊かにしてくれるでしょう。しかし周りの環境がひどいものだったとしたら、このような感覚や直観は麻痺するでしょうし(せざるを得ない)、不自然な感覚を持ってしまうことでしょう。人は生まれつき優れた感覚を持っていると思いますが、この優れた感覚に従うこともやっぱり重要です。その感覚に従って自分の周りの環境をよくしていけばいいのではないだろうか?ということを言いたかったわけです。
 さて私たちはよく自然保護だとか生態系保護だとか言いますが、守られているのはどちらかというと人間(社会)です。豊かな自然、生態系があるからこそ人間はそこからの恵みでその中で生きているのです。しかしその自然や生態系を人間の欲のために奪い去り、あるいは人間同士で奪い合って、自分たちの環境を破壊してきました。だから「保護」や「守る」というよりも自分たち人間の態度を改めて、その地域の自然にあったように行動し、自然や生態系の中で生きていくと表現した方がしっくりきます。
 よく言われますが、人間も生態系の一員であるということを認識することが大切かと思いますが、その生態系の一員としての私たちの役割というのは、長い時代をかけて創り上げてきたものでしょう。人間がいなければ困ってしまう動植物もいます。そういう意味で長い時間をかけて培ってきた私たち人類の感覚というものを頼りにすることも大いに意味があることでは無いでしょうか?